こんにちは、菊山ひじりです。
何回かブログでちょっと書きましたが、最近の私のテーマの一つはは「愛」です☆
同じことを言ったりやったりするのでも、そこに愛があるかどうかで、まったく違ってしまう・・・ということを痛感しておりまして・・・(^^;)。
また、「自分の思い入れ・こだわり」を捨てて、相手の立場に立って淡々と愛を表す・・・ということの難しさも感じています。
自分の至らなさをしみじみ味わっております・・・。
その昔(本当に昔デス・・・笑)、カトリック教会に通っていた頃のこと。
青年会のメンバーで聖書研究か何かをしていた時だと思いますが、「愛とは?」という話題になりました。
青年会というのは熱心な若い人たちばかりですから、聖書の知識もすごくて、皆で聖書を引用したりして、あ~でもない、こ~でもない・・・と議論していました。
議論が白熱して、どんどん言葉遊びに近くなってしまい、煮詰まってきたころです。
青年会担当のイケメンイタリア人・マリオ神父様がやってきました。(以前にもマリオ神父様のエピソードを書いたことがあります♪コチラです )
そこで「神父様にお聞きしよう!」ということになり、質問をしました。
「神父様、愛とはなんですか?」
すると神父様はその場の事情を察して、こうおっしゃいました。
「愛とは、道にお腹を空かせて倒れている人がいたら、助けて食べ物を与えて介抱することです。とても単純なことです。愛についていくら語っても、そこに愛はありません。」
その答えに、今まで崇高な愛について議論していた青年会メンバーはハッとして、何も言うことができなくなりました。
神父様の言った例は、聖書の中に書いてある有名なエピソードで、愛の本質をとてもシンプルで具体的な形で表わしています。
でも、知識欲の高い血気盛んな若者たちは、シンプルなエピソードはすっかり忘れて、格好いい言葉がいっぱいのパウロの書簡を元に、言葉遊びの議論を続けてしまったのでした。
「心に愛を」「愛の波動」などと言葉で言うのは簡単です。
でも、どんなに「愛」について知識があったり、瞑想して悟っていたとしても、それが表現されず、一人心の中で思っているだけでは意味がないのですね~☆
また、行動はあったとしても、見返りや感謝を求めたりしては、愛ではなく打算になってしまいますし・・・。
愛がなければ、どんなに素晴らしい言葉も、行いも、単にそれだけのこと。
もちろんそれにはそれで価値があり、素晴らしいことです。
でも、私が今求めている方向性とは、やっぱり違うんですね☆
この神父様の言葉を聞いて、すでにウン十年・・・。
とても「私には愛がある♪」なんて言える状態ではなく、一体今まで何をしていたのか・・・と、お恥ずかしい限りです・・・(^^;)
でも神父様からこのお話を聞けたことは、私の宝だと思っています。
ですから、決して諦めずに(笑)日々愛を感じていきたいと思います♪
何事も、諦めちゃいけませんよねっ!!(爆)